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鼕よもやま話

鼕行列と祭り

鼕行列閑話休題 [2016.1209]

出雲弁CONVERTER

明治時代の鼕

参考資料として

暫髪(ざんぱつ)おまん、鼕行列あれこれ

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鼕ってほんとはこんな具合で始まった?

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鼕の歴史『松江の鼕』発刊(平成13年)

鼕・懐かしのフォトグラフ

「鼕だらずの会」の経緯と理念



はじめに


 「鼕 ARCHIVES」を思い立ったのは、以前立ち上げていた※HP「鼕だらず」(三年前に閉鎖)から19年たった今、あれから何が変わったやらと考え始めたからです。 来年66歳、気力も体力も著しく落ちていて、周りを見渡すと20代の若い人達が中心になって鼕を楽しんでいるのを目の当たりにしている自分がいました。 年齢的な気力体力は戻りませんが、今の自分に出来ることはと考えたわけです。で、僕が今までに知り得た「鼕」を残せたらと考えました。

 あの頃※HP鼕だらず(since1997)を作るために各町を訪問して長老達に聞いた話なども参考に、鼕に関しては資料が少ない分いろいろな説がありますが僕の独断と偏見(^・^;)で作っていきます。(エピソード6)

  ※最初に作ったHP鼕だらずのページのアーカイブです。リンク切れ多数ですが興味のある方はこちらからどうぞ。
     

今更聞けない?


 ◎松江祭鼕行列 [2016.12.09]

 「松江祭」、「鼕行列」と別れています。
「松江祭」というのは、松江神社(元々楽山にあった神社を松江城主堀尾芳晴が松江城内に移転)のお祭りなのですが、例大祭は5月5日なので、「鼕行列」に「松江祭」をくっつけてる意味が分からないです。でもまあ元々「鼕」が「歳徳神(としとくじん)」、「とんどさん」の祭事(儀式)なので神さん事に違いはないので出発の時にお祓いをして貰うのも良いと思いますが、「それって各町でやることだろ」って言いたい。

 「鼕行列」は、大正四年大正天皇の御大典の折の奉祝行事(実は大正三年にしたのが最初)の一貫として、各町がそろって行列したのが始まりです。(それまでは各町毎に近在を練り歩いていた)

 「岩姫がお輿入れの時に各町が鼕を打ち鳴らしたのが始まり」というのもありますが、誰かが言ったのをメディアがソースも確かめずにそのまま掲載した。それを鼕行列の説明の時に毎年メディアが使うもんだから、通説に。逸話として受け取って下さい。

 また、「鼕」と「鼕行列」も分けて考える必要があると思います。 何故なら「鼕」は「祭事(儀式)」で「鼕行列」は「観光イベント」と考えるからです。

 「祭事(儀式)」と「観光イベント」の違い。 「祭事(儀式)」は同じことを継続して後世に伝承していくことに意義を持つ。  「イベント」はそれを継続するために、飽きられないよう次々と新たな企画を盛り込まなけねばならない。  「イベント」だから何をしてもいいというのではなく、飽きられないイベントにするためには、形に(鼕は祭事(儀式)だからという)拘らないでいろいろやった方が良いと思うのです。


 「祭事(儀式)」は町内で伝えられてきた事を粛々と同じように行う。一方「観光イベント」の松江祭鼕行列は松江市鼕行列保存会が松江の催し物としていろいろな嗜好をこらして盛り上げる。と僕は考えます。

 「不易流行」という言葉もあり、時代の移り変わりと共に多少の変化はありかとも思います。

 
 十年以上も経つとその頃の鼕行列の形を忘れてしまっています。今の鼕行列の形がどのような経緯で作られたのかを忘れてしまいそうです。  例えば恒例のように行われている「松江神社での順番ぎめ」は17年前には存在していなかった(1999年の市政百十周年記念鼕行列の時から)。「順改め」などはどこかの祭りの模倣なのですが。

 そうして鼕行列に付け加えられた仕掛けを悪いとは言いません。むしろイベントとしての集客増を考えての仕掛けですから、取って付けました的な物で無けねば、大いに盛り込むべきと僕は考えます。

 鼕行列の開催日が変更になった経緯ですが、僕の知るかぎりでの話です。
 平成17年の鼕行列から10月第三日曜日に開催日が変更されました。  その前年、前々年度の開催日は悪天候に見舞われ、各町内から引き手の子供達の事や、年によって週の間になることもある祝日よりも日曜日にすれば準備も前日が土曜日ならばやりやすいといった意見が出たからだったと思います。

 開催日の変更はずっと以前にも行われていたいたようで、文化の日が紀元節だからといって決められた事にこだわることはないと僕も考えます。半月も前の開催だと寒さも随分緩く、暖かいのは歓迎でした。

 そしてコース。
12年頃まで出発場所は年毎に交代で末次公園市役所前と松江城東側の堀の道路(或いは商工会議所日銀前の道路)でした。 松江市役所前からのコースは、出発後茶町通りを右折、末次本町交差点を右折、松江大橋を渡り菅原天満宮前まででした。  また、商工会議所前からのコースは飯塚医院の交差点を経て京橋を渡り京店アーケード、末次本町交差点を右折、ここからは商工会議所出発と同じです。 (それ以前は、というか当時小学生(1960年頃)の僕の記憶だと天満宮は通過して竪町国道9号線まで出て左折、相生町交差点を左折するくらいまで叩いて行列していたと思います。また、出発が馬背の坂からの時もあったと聞いています)

また、鼕台の屋根の大型化に伴い狭い京店アーケードは通過できない町内が増えて、現在は京店アーケードは通過しません。

 北から南へ一列(年毎に参加台数は変わりますが概ね15〜18台。記念開催の年には20台以上、平成元年は全町内30台でした)で行列した場合先頭から最後尾までは結構長く、最後尾が松江大橋を通過する頃には観客もまばらになり淋しいという声も上がっていました。

 出発式は今のような順番改とかあったりの盛大なものではありませんでした。宮廻会長が退かれた後の安達会長になってから、鼕行列をもっと全国的な祭りにしようと盛りだくさんの開会式は、保存会が試みた仕掛けのひとつなのです。

 コース、集合場所の変更もまたその仕掛けの一つでした。 一番にあげられる仕掛けは、集合場所の変更だと思います。ただたんに出発前の集合場所ではなく、より広い、全鼕台が一堂に会せる場所になった事だと思います。(保存会が新体制になってから警察、バス交通局との道路使用交渉などを積極的にされた結果だと思います)  それによって、鼕保有町内間の交流や、観客の方の鼕叩き体験も出来るようになりました。

 気候を考慮した開催日の変更、或いはコースの変更、いろいろな仕掛け等は、観光イベント(毎年参加町内に助成金が市から支給されている)としての役割もあるわけで、集客のためには必要なことではないでしょうか。

 冒頭で述べた「鼕」即ち「祭事(儀式)」は町内で伝えられてきた事を粛々と同じように行う。一方「松江祭鼕行列」は「観光イベント」松江の催し物として、切り分けて議論していくべきだと僕は思います。

 鼕行列は見る側の祭りなのか、見られる側の祭りなのかという議論を耳にします。「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊りゃな損損」という阿波踊りの掛け声を聞かれたこともあると思いますが、見る側見られる側が一体になってこそ楽しいという意味に僕には聞こえます。 楽しそうに踊る側につられて一緒に踊りだす様を想像するからです。鼕行列もそういった祭りになればと思います。

 でも、鼕行列をしている側、即ち鼕を保有して鼕行列に参加している各町内はこの議論をする前に、松江市からの観光イベント助成金を貰っていること考慮に入れなけねばならないと僕は思います。(エピソード4)

 こういった鼕行列の歴史(まだまだ書き足らない、はたまた仲間内で仕入れたネタなどのエピソードはおいおいに)を今一度振り返り、これからの鼕行列を考えられればと思います。



◎松江鼕祭り [2016.12.16]

 松江鼕まつりはどの様に始まったのか?
 元々の始まり。東本町一丁目では町内のイベントとして鼕を中心にした催し物が年に一度行われていました。その当時、東本町一丁目の鼕を取りまとめておられた安達さん(前々回保存会長)が、その町内のイベントを市内の鼕保有町内に呼びかけて「松江鼕まつり」として1999年5月3日に北公園・総合体育館の敷地内で行われたのが第一回の松江鼕まつりです。
 安達さんの呼びかけで参加したのは、東本町一丁目、北殿町、北堀三区、鼕行列友の会、そして自町内は町内として参加しないが個々に参加したい人たちを僕が集めて鼕だらず有志として参加しました。
 松江鼕行列保存会とは別の独立した組織の「松江鼕祭り実行委員会」でしたが、2003頃から保存会の中に実行委員会は置かれるようになりました。
 2004年から始まった「松江水燈路」の開催初日に「鼕祭り」を合わせてするようになり現在に至っています。

(鼕だらずの会は2009年まで市の鼕台を使用して参加していましたが、突然「市の鼕台は南連合が使うので」と、ので2010年は自前の練習台で参加しました。 その翌年からも南連合が市の鼕台で鼕祭りに参加するのかと思いきや、その年のみのことでした。 それ以来は石橋一丁目のご厚意により鼕だらずのメンバーは石橋一丁目傘下として鼕祭りに参加となりました。 松江市鼕行列保存会に加入していない鼕だらずの会としては為す術なしでしたが、それなら何故にそれまで市の鼕台を鼕だらずの会に貸出し鼕祭りに参加させていたのか?私事で申し訳なし。)(エピソード5)