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鼕行列閑話休題 


〔ばち〕
 「しゃぎり囃子」の性格面からいえば、この曲は神様が粛々と渡御されるときのお囃子であり、また一般には練り物行列囃子と称されます。つまり一種の行進曲ですから当然歩調に合わせ一定のテンポで最後まで奏されなければなりません。これは日本中の同じように「しゃぎり」の名を持つ囃子の決まりごとです。

 ところが鼕行列においては、一鎖の中で変調する場合が散見されます。この理由に「バチ」を挙げる有識者もいます。 長い歴史の中、鼕の巨大化に伴いバチもまた太く重くなりました。しかし「ものには程があり、自在に扱える範囲がある」そうで、確かにここまで重くなると強力の持ち主ならばいざ知らず、非力な者では持て余します。
 いきおいバチ数が増えるところではどうしてもバチ振りがもたつき揃わず、結局「町内の申し合わせか何かで調子を間延びさせざるを得なくなった」のだろうということです。   バチ巨大化の理由は定かではありませんが、多分闇雲な大音量への欲求か、あるいは個人の腕力誇示などもあったかもしれません。

 しかし、もしそうだとすればこれは妙です。勝手に手に余るほど鼕を巨大化しておきながら、そのバチが振れないからといってお囃子の曲調を変えてしまうなど、なんとも本末転倒な話ではありませんか。  古来、太鼓のたたき方には「オンブチ」「メンブチ」「コバチ」と呼ばれるものが伝えられています。これはメロディーのない打楽器演奏においては、心地よい抑揚や変化に富む表現のために必要不可欠な技法です。  鼕にあっても同様に程好い打法表現があるはずで(オオタタキ、コタタキ等)、その達成のためにも各々その身に応じたバチを持って、それを存分に使いこなせることがまずはどうたたきの第一歩ではないでしょうか。
 非力な者は出るべからず!というのなら話は別ですが、昔と違って女性や少年も演技参加を許されるようにうなった昨今、皆が同じように太く重いバチを共用することには、最早無理があると思います。

 〔間拍子〕
 さて、ではバチをその力量に合わせたとして、その次に考えることは全体の調和でしょう。 銘々勝手に前のめりでたたくことばかりに心を奪われて、バチも次第に逸って、粛々たる行列であるべきなのに神様もいつしか小走りに・・・というのでは困ります。
 どうを見事にたたきこなすこと、それはいかにたたくかではなく、いかに上手く間拍子を取るかにかかっているのではないでしょうか。 たとえ一人一人は非力でも、皆が心を合わせバチを揃えれば、きっと腹に響くどうの鳴りを実現できると思います。
 全体の調和と均衡を考えて、各々間拍子を正しく取ることに腐心することは必要ですし、まずはそれを目指すのがどうたたきの全体稽古であるように思います。

 〔稽古の要諦〕
 ところで、初心者が稽古するにつけてその留意点に「見えているが視ていない」「聞こえているが聴いていない」ということがあります。 筆者自身の経験から言えば、初心者のころには、せっかく指導を受けてもたたくことに意識が行くあまり、指導者のバチの動きばかりに気をとられ身体全体の使い方が目に入りませんでした。 鼕に対する構えはどうか、足運び,ひざや腰の入れ方。肩や肘、手首の働き、バチの握り。皮の当たりどころ等等。こうした一切をただ漫然と傍観し見逃していては、何年たってもドウの習得は覚束ないでしょう。
自ら意識して積極的に注視しなくては,気が付かないことは他にも山ほどあります。「見えているが視ていない」とはこうした学ぶ側の意識の持ち様のことです。その音色についても「聞こえているが聴いていない」では、いささかの進歩も望めないかも知れません。

 〔チャンガラ〕
鼕行列にとってもう一つ重要なものにチャンガラがあります。 鼕行列一般でこの楽器の扱いには少々粗末な感がありますが、元来シャギリの語源ともなっている楽器ですから,鼕行列にとって必要不可欠なパーツであることに異論をはさむ人はいないでしょう。  にも関わらず、正直に言って充分たたきこなしている人は実に限られているようで、極端な例では、のべつ幕なしにチャンチャンたたいたり他の楽器に合わせることもなくむしろテンポを乱したり。そんな様子に出くわすといかにも残念です。
 チャンガラは決して鼕行列の添え物ではありません。いわばオーケストラの指揮者だとさえ言えるかもしれません。昨日今日の初心者が扱えるような代物ではありませんし、第一無理です。出すぎず引きすぎず、絶妙な間合でもって全体を導かねばならぬと知れば、熟練を要する楽器であることを理解するに難くはないでしょう。
 このようにあたかも鉦は囃子方頭の役どころのように思えるのに、奏者がなかなか育たないのはその存在の地味さ加減によるのかもしれません。
 しかし、この楽器がなければ鼕行列は途端に華を失ってしまいます。 言葉では上手く説明できませんが、全国津々浦々に数多存在する民俗芸能囃子において多くがこれを重視していることに鑑みても、鉦の音にはそれ相応の力があることに疑いはありません。  チャンガラの技術の伝承は各町の責務でしょう。

 〔笛〕
 有識者の談で次のようなものがありました。以下はその要約です。  「笛は全体に細すぎます。細管のほうが吹きやすいと思い込んでいる人が多いですが、細管では音にならない息を余分に使い、かえって吹き辛い。音質も薄く遠音がさしません。現行より二回りは太目が欲しいところ。また全町で基音を決めておくと連管したときに好都合です」

 〔その他〕
ある音楽家の言葉に次のようなものがありましたので,以下書き留めて終わりにします。  「音楽が人に感動を与えるとき、その音楽はピアノとフォルテの幅が広い。 つまり幅広いニュアンスを駆使できているということだ。ピアニシモとフォルテシモが一つの音楽の中にすべて溶け込んでいて、初めて音楽としての体を成す。フォルテだけでも、またピアノだけでも良い音楽にはならない」
抑揚・強弱は、音楽にとってかくも重要なものなのでしょう。   以上

   (石橋一丁目・小村氏談)