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鼕ってほんとはこんな具合で始まった?


   「鼕(どう)」のルーツはと言うと、正月に城下町松江の各町内で行われていた「歳徳神」の祭り事町方のとんどさん)なのだけれど。町の年寄りが語ってくれたお話を演出も含めて、わたしなりの想像をしてみました。

 正月、氏子の各町を宮司が廻って拝んだに違いないにしても、当時恐らく宮司も貧乏。神社常駐の笛や太鼓の囃子方を引き連れてというわけにもいかなかったのだろう。 そこで、各町から二〜三名の氏子を神社に呼び寄せ神社での囃子方を宮司が伝授し、事ある毎にその者達を囃子方として演奏させたと推測する。

 その者達は習い覚えた笛や太鼓、チャンガラを町に帰ってみんなに教える訳だけれど、そこはそれ習った通りに教えられるわけはない。ちょっとしたアレンジがなされ町内のみんなに伝授された。町内独特?のお囃子方の出来上がりである。(現在も町毎に叩き方やテンポ、笛の調子とかが少しずつ違っているのはそんな所に原因があるのではと思われる)

 正月の「歳神さん」の祭になると宮司の思惑に反して大人達は囃子方を子供達に任せて早々の宴会を始める始末。すると隣の町にもそんな輩がいて町境で出くわし、お互いの囃子、太鼓叩きの上手下手の競い合いがおっ始じまる。

 年を重ねる事に、だんだん上手下手などお構いなしになり大きい音を出した方が勝ちになる。大きい音を出すには大きい太鼓にすればいいというので太鼓をだんだん大きくしていった。なんとも短絡的な発想なのだけれど嬉しくなる。

 更に大八車も飾り立てて自慢したに違いない。更に更にそれはエスカレートして行き「ニワカ」と呼ばれる今風に言えば「街頭パフォーマンス」「"歩行者天国タケノコ族」にまでなって、あまりのハチャメチャさに御上のストップがかかったとか。

 「鼕」は「歳徳神」の祭から離れて一人歩きをしているようだが町内を挙げての祭だったことには間違いはなく、町内の一致団結のシンボルが「鼕」だった事をわたしは疑わない。

 今も「鼕」を出す時には「歳徳神」のお宮さんを町の「当屋」と呼ばれる持ち回りの家にお祀りし、町民が集うという慣わしは続いている。

 「鼕」は町民のステイタスだということを再認識して町内の活性化を考えてほしいと願っています